塵も積もれば大和成る

色々と喋ります。書いてる内容がフラッフラですがお許しを

「灼眼のシャナ」のアニメを全部見た話(前編)

記事を書くのがめちゃくちゃ久しぶりです。

ぼーあです。

 

今回はタイトル通り、あの有名作「灼眼のシャナ」のアニメを1~3期まで見たのでその感想や、見ていて感じたテーマ性などについて書きたいと思います。

 

 

僕はここ数年、全然アニメを見なくなってしまい、殊更ライトノベルなどのソレには全然触れなくなってしまったのですが、知人に「絶対面白いからよ!見ようぜ!」と呼ばれたことをきっかけに、「まぁたまにはいいか」とDVDを一緒に見ることとなったわけです。

で、これが非常に面白かった。

特に物語が収束する3期に至ってはもう圧巻の出来という他なく、実際先ほど見終わってから興奮やまぬ状態でこうして記事を書いている次第です。

色々と言いたいことはあるのですが、今回の記事ではとりあえず以下に、僕が感じたこの作品の根幹のテーマ性(だと思われるもの)について印象的だったものを記していきたいと思います。(長くなってしまったのでとりあえず二つだけ)

 

*ネタバレを含みます。灼眼のシャナ未履修の方はご注意をば。

 

 

 

1.愛、恋愛感情について

まず印象的だったこと。自分はこの作品を流行った時代背景的なことも考えて「とあるシリーズ」のようなバトル主体の話が展開されると思っていました。

が、実際はそうではなく、(確かにバトルは要素として存在はするが)話の本筋は登場人物同士の人間関係、とりわけ愛や恋愛感情に焦点を当て、そこを徹底的に丁寧に描写するといった作風がとられています。

細かいことはキャラクター論になってしまうのでここでは割愛する(次の記事で描きたい)のですが、恋愛描写に関係のないキャラクターがほとんど存在しない。いずれのキャラクターも大なり小なり恋人がいたり好きな人がいたり、恋愛に関してのトラウマや思い出を抱えているわけです。

シリーズを通して主に描かれるのには「シャナと悠二」「マージョリーと佐藤」「悠二と吉田」「坂井家夫妻」などの要素がありますが、特に印象的だったのは「口同士のキス」。

このキーワードが登場するのは1期11話、回収されるのは3期最終話とまぁ大変時間がかかるわけですが、とりわけ11話はキスの定義、どういったものなのかについての考察がシャナと千草を通してなされます。これにとても時間がかけられており、「キス」が本作品における大きなキーワードとして成立してくる一つの理由になっていると考えます。

「あやふやで完全な答えがない…そう、心や感情のお話」

「キスって言っても、ほっぺにするのと、口と口でするのはかなり意味が違うのよ」

「口と口のキスは、誓いのようなものだって。自分のすべてに近づけてもいい。自分のすべてを任せてもいい。そう誓う行為」

                       ――アニメ「灼眼のシャナ」11話より

 これはシャナがキスの意味を千草に聞いた時のそれに対する返答ですが、ここでの話が作品世界すべてに適用されています。

それは約束の二人(エンゲージ・リンク)であり、ソラトとティリエルであり、マージョリーと佐藤であり、なによりシャナと悠二そのものです。

「お互いが自分のすべてを相手にさらけ出せる関係性にある」=「口と口のキス」という図式が展開されているわけです。

これは作品世界の人間関係を表す方法として非常に重要でありつつも効果的であり、分かりやすい要素であると言えるでしょう(実際最終回のEDに入るあのシーンは本当に良かった。ラミーさん粋すぎるでしょ…)

3期ではその本質に益々触れていき、上記の関係が「愛」そのものであるという風に結論付けられるわけですが、ここまで作品を通して愛について真正面から向き合って語る作品、素晴らしいの一言に尽きます。


2.アイデンティティ確立と親離れ

 青年期を描く作品として、キャラクターが自身のアイデンティティ確立をしたり、それに伴って親離れをしていく、というのは一つのイニシエーションであると僕は思っているのですが、大抵それは本質的なテーマの隅で少しだけ描写されるような副次的テーマであったりするわけです。

そういう意味でこの事に対して腰を据え、(特に坂井悠二佐藤啓作というキャラクターについて)ガッツリ尺を取って描写した「灼眼のシャナ」という作品は、僕個人こういうテーマを愛しているということもあり、とても好みのものでした。(「stand by me」「ぼくらの」惡の華」「月がきれい」あたりの作品が大好きなのも多分それ)

 

悠二も佐藤も、最後には想いを共にする相手と添い遂げるわけですが、その過程で「相手以外のほとんど全て」を切り捨てる形となっています(特に悠二に関しては顕著)。

これが作品の非常に重要な要素になっていると僕は考えます。

青年期においてのアイデンティティ確立は重要でありつつ最優先といってもいい程の課題であり、全ての人間がこれに悩まされ、時間を使うといっても過言ではありません。

 

そして、アイデンティティを確立する過程では、どうしても心理的なモラトリアムが必要になって来ます。このモラトリアムが悠二にとってはこれが「死んでシャナと会ってから」、佐藤にとっては「マージョリーに会ってから」始まり、「作品世界の終結と共に」終わるわけです。

 

このモラトリアムを通して両者は様々な経験を積み、自分に何が出来るのかを考え、人を愛し、各々の結論を出していきます(もちろんシャナ、吉田さん、田中などといったキャラクターもそれに該当する)。

これはエリクソンの発達課題から見ても青年期~初期成年期における段階を非常に健全に(?)攻略しており、そういった意味でも非常に感心させられました。

 

また、結論を出す以上、モラトリアムは取捨選択の期間、言い換えれば「何を選び取り、何を切り捨てるか」の時期でもあるわけです。

両者はこの過程で、一番わかりやすく「両親と共にある可能性」を切り捨てているわけです(佐藤については元々のこともあり少し微妙ですが)。これはそのまま親離れの意味と同義でとれるのではないでしょうか。

個人的なことを言えば、この「両親よりも想い人を選択する」という展開自体が非常に好みであり(「最終兵器彼女」の最終巻でシュウジが両親を見捨ててちせの元へ向かうシーンが特に印象深い)、また、これは先に述べた「愛と恋愛感情」の話にも繋がってくると考えます。差異はあれど、多くの結婚し、家庭を持っている人間は少なくとも両親よりも想い人を優先しているわけですから。

悠二と佐藤はまさにその選択をしているわけです。最終話にはそんな意味もあって、一つのもの悲しさを覚えると同時に両者の覚悟を感じて胸が熱くなりもしました。

 

 

今回はこんなところで。

記事が長くなってしまったので、他にも書き進めている部分はあるのですがとりあえずこれだけ前編として投稿したいと思います。(前編シュドナイ

では。読んでいただいてありがとうございました。